ソウル
徳寿宮
福寿宮は朝鮮時代の第14代王・宣祖が文禄の役の際に
避難から帰ってきた後、月山大君の子孫が住んでいた家を仮の
宮殿(貞陵洞行宮)としたことから、はじめて宮殿として使われました。
その後、光海君が昌徳宮へと移住する際に、貞陵行宮は「慶運堂」と
名付けられました。
慶運宮に再び王が住んだのは、第26代王の高宗がロシア公使館に
暫く滞在した後、慶運宮に移ってからである。
高宗は、朝鮮の国号を大韓帝国に変え、祭祀を行った後、皇帝の
座に就いた。これにより大韓帝国は、歴然とした独立国である事を
対外に明らかにしようとしました。地位に相応しい宮殿にするために
様々な建物を建て、宮殿の敷地を拡大しました。
当時の宮殿は、現在の約3倍の広大な敷地に及びました。
1907年、高宗が強制的に退位させられてから慶運宮は福寿宮と
呼ばれるようになった。 1919年に崩御するまで高宗は徳寿宮で過ごし
高宗の崩御後、徳寿宮に対する解体、縮小作業が進んだ。
大漢門 もとは徳寿宮の正門ではなく東門で、元の名前は大安門でした。
1904年大火災の後1906年7月に再建され、大漢門と改称され
以後は事実上の徳寿宮の正門となりました。
禁川橋 全ての王宮に風水地理学上、明堂水があると吉であるという
原理に基いたもので、禁川橋は虹のような半円構造で2つあります。
橋の床に三道(サンド)が有り、三道の真ん中は両端よりも高くて広い
御道があります。この御道は王様だけが通ることができます。
光明門 1897年に建設されたが、1904年に焼失、同年に再建された木造建築
本来は咸寧殿の南側にあり、咸寧殿の正門として使用されていましたが、
石造殿別館が建設されたことで1938年、現在の位置に移されました。
中和門 1902年に創建された木造建築で、徳寿宮の正殿である
中和殿の正門にあります。1904年の大火災で焼失、1906年再建
また1982年にも改装され現在の姿になりました。
中和門の四方に回廊をめぐらしたが、日本の植民地時代以降、周辺の
建物や門が壊され、庭園が造られて現在の姿となりました。
正殿 中和殿 高宗は大韓帝国を宣布した後、皇帝の治める
国に相応しい宮殿にするために、徳寿殿を整備していった。
中和殿は1902年建設当時は重層に建てられたが、1904年に火災に
見舞われ、1906年に建て直された際に単層に縮小された。
皇帝の治める国に相応しい宮殿は、基壇部階段の「踏道」に刻まれた
龍の紋様、黄色に塗られた窓や扉などからもそれを確認できます。
内部の天井には2匹の龍が描かれています。この爪の数は7本と
成っています。これは龍の爪の数の大部分が、5本で王を表すのに対して
7つは皇帝を象徴します。
中和殿は徳寿宮の中枢として国の公式行事(王の即位式、家礼式
外国使臣の歓迎儀式など)が行われた場所です。
俊明堂 即阼堂
俊明堂(左) 1897年に再建されたと推測される木造建築、
高宗が大臣と国政について論議した便殿
即阼堂 大韓帝国の初期、最も中心となる「正殿」として、中和殿が
建てられた後は、便殿として使われた。
昔御堂 徳寿宮で唯一残っている重層の二階建の建築物
文禄・慶長の役の時に宣祖が避難先から帰都し崩御するまでの16年間
暮らした場所です。
韓国では珍しく彩色が施されてなく、飾りがない民間風建築様式です。
石造殿 1900年に工事が始められ、1910年に完成した。
石造殿は接見室や大食堂などの公的空間、寝室や書斎など皇室の
生活空間が兼ね備えられた大韓帝国を代表する西洋風の建物であった。
しかし、日本の植民地時代には美術館として使われるなど、内部の本来の
姿が変えられてしまった。現在は2014年10月から大韓帝国歴史館
として開館しています。地上3階、延べ面積1247坪の御影石で出来た
石造建築。建物の長さ54.2m 幅31m 高さ17.5mです。
咸寧殿 高宗の便殿であり寝殿として使われ、高宗が崩御した場所
でもあります。他の宮殿と異なり、徳寿宮には皇后の寝殿が設けられて
いないが、それは明成皇后が亡くなった後、高宗が皇后を迎えて
いなかったからである。
静観軒 王宮の中に最初に建設された西洋式(中国風)の建物
高宗が茶菓会を開催したり、音楽を鑑賞したりした休息の場所です。
この建物の裏にはロシア公園に通じた狭くて秘密の地下通路が今も
残っています。ロマネスク調の屋根に赤いレンガのテラス、花模様で飾られた
柱など伝統文化財ですが、異国的な雰囲気の建築物です。
トムダムキル(石垣道)
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